九重連山と私

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 「くじゅう」は生もの一人っきりの「くじゅう」これからの「くじゅう」HOME

「くじゅう」とバイク
九重連山への山行を始め、すでに25年以上が経過しました。そして20年ほど前からは撮影主体の山行になりました。 それまでも夏を中心に週末は毎週のように、高校生の頃から実に35年以上バイクで久住高原や飯田高原周辺を走ってきました。 バイクで最高なのは夏の早朝。この爽快感は体験した者でなければ理解し難いもので、 言葉で表現するのが難しいほどです。夜もまたすばらしく、雑踏を離れ「くじゅう」で見上げた星空も印象的でした。

標高1000メートルを超える長者原周辺は秋の訪れも早く、11月になるとバイクで走る のは苦痛になります。次の春が来るまで、しばらく「くじゅう」ともお別れです。 でも寒ささえ我慢すれば、冬の九重連山も最高なのです。 春を待ちきれずに路面がまだ凍結している時期に出かけ、久住町側から見た九重連山の 雪景色に寒さも忘れるほど感激したこともありました。

「くじゅう」に足繁く通い始めた30年以上前、別府阿蘇道路(通称やまなみハイウエイ) は有料道路で、料金所が何カ所かありました。料金所の場所はその後も何度か移動しましたが、 多少遠回りをすれば各ゲートを通らなくてもよいわけで、貧乏学生だった私は脇道に まで入り込み、農道のような道も随分通りました。おかげで周辺の道にはずいぶんと 詳しくなりました。

名水100選に選ばれ急激に観光客が増えた男池周辺も、30年前までは閑散とした湧水にすぎず、 通りすがりに立ち寄って飲んだ男池の水は感動の味でした。まさに8月の終わり頃で、湧水口周辺の小径には、 オレンジ色のキツネノカミソリがきれいな花を咲かせていたことが妙に印象に残っています。今では当時の面影はなく、 きれいに整備された駐車場と遊歩道があり、近くには土産物店もならび、休日ともなればたくさんの観光客でにぎわっています。

小回りの利くバイクのおかげで色々な風景に出会うことができました。エンジンを止めたときの静寂も好きでした。 見上げる空は街よりも青い藍色、夕焼けや朝焼けは鮮やかな朱色。そんな中に連れていってくれるバイクと「くじゅう」が好き でした。でも私と「くじゅう」の接点は実はもっと以前からあったのです。

※写真は約35年前に乗っていた懐かしのSUZUKI GT250 (牧ノ戸キャンプ場にて)

「くじゅう」との出会い
ここ大分では「くじゅうでキャンプ」と言えば九重連山のオアシス「坊がつる」を代表に 飯田高原や久住町周辺のキャンプ場でのキャンプを意味しており、職業柄毎年夏には 「教育キャンプ」なるものに同伴していました。
このキャンプそれ自体は「仕事ですからそれなり」なのですが、ルートの視察を兼ねて、 6月初旬、ちょうどミヤマキリシマの盛りの頃に「下見」に出かけます。ミヤマキリシマの 表年ですと、段原から大船山にかけてや平治岳の山頂付近が一面ピンク色に染まった光景 と出会うこともしばしばありました。初めて目にしたときにはそのあまりの美しさに感激し たものです。

毎年夏には県内外のたくさんの団体や学校がここでキャンプを楽しみます。私が中学生 だった約40数年前もそうであったように、はじめて九重連山を訪れるきっかけは、きっと こんなキャンプなのでしょう。九州とはいえ標高が1000mを超えると盛夏でも寒さを感じる こともあり、平地とはひと味違う自然を体験することができます。

※写真は40年程前の牧ノ戸峠付近 (昭和49年7月撮影)

そして「くじゅう」へ
90年代前半のバブル期には「くじゅう」にも開発の波が押し寄せ、別荘地や行楽施設が 増えていきました。そして1994年にやなまみハイウエイが無料化される前後をピークに急激に 観光地化が進み、久住高原や長者原・飯田高原周辺もずいぶんと様変わりしました。 観光客が急増し、道路沿いには土産物店が並びます。自然そのものが商品となっている わけですから当然のことなのでしょう。

休日ともなると観光バスやキャンピングカー、そしてたくさんのバイクで、長者原や 瀬の本はにぎわいます。私が久しく九重連山を眺めながら静かに昼寝を楽しんでいた お気に入りの場所にも観光客が来るようになり、徐々に私の居場所がなくなってきま した。

「今度はバイクじゃ行けない所にも行こう!」と思いついたのがその頃で、それ以来 カメラ持参で山歩きをしています。九重連山そのものは知らない場所でもありません でしたし、幾度か歩いてみるとわかるのですが、連山自体もそれほど広大ではありま せん。比較的狭い範囲にいくつかのピークが点在している感じです。 しかし歩き始めて目にする四季折々の景観の変化は、1年に1〜2回程度訪れていた 頃には想像すらできないほどすばらしいものでした。やがて四季を問わずほぼ毎週通うようになり、 近年は年間40〜50回程度は出かけています。

今でも夏にはバイクで走っています。土曜日に山歩きをし、日曜日の早朝は飯田高原や 瀬の本周辺から久住高原あたりをバイクで走ることも少なくありません。

「くじゅう」の写真
当初は撮影が目的ではなく、最初2年間程度は撮影は二の次で、「全ての山に全てのルート から」を目指し、春から秋にかけての3シーズンをひたすら歩きました。「おすすめの山」に記載している山頂 への所用時間等は、この頃の記録を参考にしています。撮影山行が主体になったのは、その後になります。

中学生の頃から写真が好きで、初の一眼レフOLYMPUS M1(当初はOM1ではなくM1でしたが すぐに製品名が変更されました)を中学校1年生の時に入手して以来、撮り続けてきました。しかしながら、何か につけて趣味が多いことが災いし、常時貧乏性で高価な機材とは無縁です。九重連山の撮影も、当初はザックに 無造作に投げ込んだ30年来の相棒OLYMPUS OM2で始まりました。 モルト交換はいうに及ばず、オーバーホールもして 酷使に耐え続けてきた愛機です。しかもレンズは28mm主体で、その他は結局ほとんど持参せず軽量化をはかって きました。

実は撮り始めの頃、意気揚々と借り物のPENTAX 67を担いでいったことがあります。 これがまたレンズや三脚など相当な重さで、ほどなく・・・、というより正確にはたった一度で懲りてしまい、 その後幾多の紆余曲折を経てこのような極軽量化撮影スタイルにたどり着きました。 ただ「重い」という理由で機材を切りつめただけだったような気もしますが・・。(苦笑)
銀塩での撮影の最後はCONTAX G1とZeiss T*レンズを愛用していました。このカメラは軽くて携帯には最適 です。これならレンズを2〜3本持っていっても全く苦になりません。常用のビオゴン 28mmも優秀で、広角レンズにありがちな周辺部のひずみを感じさせません。

2000年以降は、急激な性能向上と価格低下が同時に進んでいるデジタルカメラ主体の 撮影になりました。デジタルカメラは画像入力用のデバイスとしては画期的な製品で、 カメラ+レンズ+フィルムスキャナの売価の10分の1で購入できるデジタルカメラの画像ですら 天候等の条件や使い方次第では、ポジで撮影したものとほとんど同じレベルというのも驚きです。 それにしても、カメラショップで徐々に売り場を広げているデジタルカメラを見るにつけ、 デジタルカメラがフィルムカメラを駆逐してしまう日もそれほど遠くない気がしています。

銀塩で10年余り撮影をしてきたのですが、2000年10月より主撮影機をOLYMPUS E-10に移行。 さらに2001年9月からは、Nikon D1xを使用。約3年間使用した後、2005年2月からD1xの後継機にあたるD2xに切り替 えました。そして2009年2月、満を持して待望のフルサイズ機D3xでの撮影になりました。高解像度を誇るD3xにいた っては、もはや銀塩中判カメラを超えたといっても過言ではない性能です。NikonのD一桁機は最良の撮影機材でしたが、 寄る年波には勝てず、軽量化を図るべく2014年7月には主撮影機材をD3xの後継にあたるとされる高画素機のD810に 移行しました。これらのデジタルカメラの画像サンプルを縮小し、【今週の1枚】の画像データ一覧 にアップしています。原画レベルであればRAWデータの質感は抜群に良いのですが、このサイズに圧縮すると JPEGとの差は全くありません。

撮る事に関しては気負いはありません。私は自分の記録として撮ってきましたので、 フィルムはラチチュードが広くカメラ任せでシャッターが切れ、どんな条件でもそれなりに撮れてしまう ネガカラーで撮影したものの方が多いのですが、それでも春や秋にはポジに頼らざるを得ない事もありました。 もっとも、あまり難しい事は考えずにシャッターを押しているだけなので、感じたままを表現することはもとより、 見たままに写すことすらままなりません。もう少し年をとって、一通り写すことに納得できた時には、 ビューカメラとまではいかなくても、せめて巨大イメージセンサーのカメラバックを装着した中判カメラで、 じっくり腰をすえ三脚も据えて撮影を楽しんでみたいと思っています。

最近ではプロからアマチュア写真家まで、九重連山を題材にしたホームページやブログを 開設される方が急増しています。そこに掲載された見事な朝焼けや夕焼け、厳冬期の霧氷に覆われた夕日に染まる 大船山の景色はすばらしく、ひたすら圧巻ですらあります。
これは誰でも気づくことですが、風景を撮影していると、日中の光景だけでは画像がどうしても単調になってしまいます。 朝日や夕日、月光などの光源の変化や斜光線が作る微妙な陰影、風や水流などの演出が画像に変化を与え、 見応えを感じさせてくれます。 ですから、私もいつかはこのようなところでシャッターを押してみたいと思いつつも、山行の週末には、 毎週のように前夜の深酒がたたり、多少重い頭を抱え、夜明け頃に自宅を発ち、山頂に着く頃にはすでに 昼前。その頃になってやっと正気に戻るという状態です。(苦笑)
私の撮影というのは、私と同じように、金曜の夜の残業が終わり、週末の街で仕事の憂さを肴に一杯飲んで から帰宅した人が、翌朝に自宅を発ち、そこで目にすることができる光景を切り取っているわけですね。 そこで最近は諸兄らのように朝駆けをしようともせず、素直に事実を認めて「それが自分の記録なのだ!」と、 言い訳も込めながら納得していたりします。(苦笑)

ですから、撮るといっても勢い込んで行くわけでもなく、天候が悪ければ無理はしません。 途中で天候が急変し、結局1枚も撮れずに帰ってくることもありました。 時には理由もなくシャッターを押す気がせず、1枚も撮らずに帰る事もあります。 雨上がりの下りで足をすくわれ、膝を痛めたため山歩きできず、しばらく撮れなかった ことも何度となく経験しました。坊がツルで昼寝をし、帰ってくるだけということも少なからずあります。

こちらはもうプロの仕事の領域ですが、九重連山の写真といえば、上野哲郎氏(不知火書房) や足利武三氏(山と渓谷社)、藤田晴一氏(山と渓谷社)などが写真集を出され、また元法華院温泉山荘スタッフで、 現在は福岡市でフリー写真家として活躍中の川上信也氏の「坊がつる山小屋日記」や「くじゅう万象 坊がつる日月」にも 魅力的な写真がたくさん掲載されています。

※写真は約40年前の沓掛山下付近のカラマツ (昭和49年7月撮影)

「くじゅう」は生もの
ホームページを掲載する前後から、それ以前より休日に「くじゅう」に通う割合が 増えました。以前は大分県内の高原や低山を中心にあちこちに出かけていましたが 最近ではすっかり「くじゅう」に執心状態です。しかも同じルートで前週と同じ山 に続けて通うことも少なくありません。むしろその方が微妙な変化を感じることが できたりするのです。

山頂からの景色も格別で、その爽快感は誰でも感じることができます。そして最近 になって、少しずつですが四季折々で微妙にちがう風の香りや、季節の移ろいを 感じさせる自然の小さな変化を捉える、そんな接し方ができるようになった気がし ています。「くじゅう」への接し方に余裕と幅が持てるようになったのかも知れま せん。仕事の関係で休日も休めなかったり、たまの休日に天候が悪いことが2〜3週も 続くと、次に出かけたときに周囲の景色が激変していて驚くこともしばしばです。

季節の移ろいは時に気まぐれで、毎年同じ時期に同じ場所で同じ光景に出会える ことはまずありません。だからこそ、今年もまたそれぞれの季節、それぞれの光景 に出会うために歩いているような気がします。ひたすら「くじゅう」に通うことで、 2度と同じ表情を見せない生きている「くじゅう」を感じることができるのでは ないか、とも考えています。

一人っきりの「くじゅう」
私の山行はほとんど一人っきりの単独行です。もちろん一年に何度かは知人と出かけてい ますし、山開きなどのイベントや秋の紅葉シーズンは、毎年友人と山行を楽しんでおり、この恒例行事も、とても 楽しく有意義です。
しかし、あとはほとんど単独行。風の香りに季節の移ろいを感じながら、ふと気 がつくと同じ場所に何時間もいたことがありました。「くじゅう」と同化している ような疑似体験を楽しんでいたのかもしれません。カメラを構え、時には風を待ち、 日差しやガスの晴れ間を待ち、また厳冬の山頂で粘り続けることもあります。 いつも気ままに歩いて、真冬でもこんな調子の気まぐれ単独山行が私の流儀です。

いくら「くじゅう」を撮り続けている気になっていても、「くじゅう」に生活して いるわけでもなく、いくら通い詰めても、決してその姿を捉えることはできない のかもしれません。しかし、できればこれからも、ライフワークというほど大げさ ではなく、それとて流行に流されるでもなく、あくまで自然体で「くじゅう」に接 していけたらと考えています。少しだけ距離を空けて、それこそつかず離れず に接していたいのです。恋愛や趣味もそうですが、妙に夢中になると息切れするのが早 く、気がつくと目の前から消えていたなんてことも度々経験しましたので。(笑)
自分で見たものが感じたものが、私の「くじゅう」であり、そんな感動をいつ までも蓄積し続けられることを望んでいます。

「一人でできること」と「一人でもできること」、そして「一人でないとでき ないこと」が混沌と存在する「くじゅう」を、私なりの感性で撮り続けて行きたいと考えています。

これからの「くじゅう」
そんなわけで、私にとって「くじゅう」の原点はバイクであったわけですが、 これからどんなスタイルで「くじゅう」に接していくかは、妙な言い方ですが 未知数です。現在のように「くじゅう」を撮り続けていくのか、やめてしまう のかすら自分自身にも正直なところわかりません。ただ、たやすくやめてしまえる ほど魅力のない素材でないことは確かです。つかず離れず、何らかの形で一生つき あい続けて行くことになりそうな気がします。

私が今のような形で通い始めてからも「くじゅう」は絶えず変わり続けています。 ここ20年ほどを振り返ってみても、随分大きな変化がありました。

1995年はミヤマキリシマの表年で、地元の人も驚くほど近年まれに見る見事な花が 咲きました。当然のことながら情報を聞きつけた人が遠方からも訪れ、6月の休日に は、群生地である大船山や平治岳で都会の朝を彷彿とさせるラッシュが発生しました。 食事をする場所すらないほどで、あきれるやらびっくりするやら。

そして11月、257年ぶりに硫黄山が噴火し、火山灰の降灰で九重連山は灰色に変わり、 硫黄山や星生山周囲は立ち入り規制が行われました。久住山へのメインルートである牧ノ戸峠からのルートや、 すがもり越も通行できなくなりました。

翌1996年はじめには、すがもり越にあった山小屋「すがもり小屋」のご主人が 若くして病に倒れ亡くなりました。この年12月には立ち入り規制も大幅に緩和され、 すがもり越も以前のように通行できることになりましたが、小屋は再開されませんでした。

国立公園内で営業していたすがもり小屋は、1997年9月末で借地期限が切れ、閉鎖から 約2年後の1997年10月10日に多くの人に惜しまれながら取り壊されましたが、堅牢な 石積みの外壁だけは残されています。様々な思い出とともに「くじゅう」を見守り 続けてきたすがもり小屋の灯は消えてしまいました。すがもり越を訪れ残された 外壁を目にするにつけ、かつてにぎわった「すがもり小屋」が思い出され、感傷に ひたることもしばしばです。

一方で、近年のアウトドアブームや中高年の登山ブームの影響でしょうか、年々 九重連山へ入山する人も増えてきました。当然多様な価値観や感性を持つ人が入山するわけで、 散乱したゴミやティッシュ、たばこの吸い殻はいうに及ばず、岩肌に「がんばれ中高年」という カラーペイントの落書きまでされて、山は泣いています。

九重連山にとって環境破壊の最大の原因は入山する人間にあることは疑うことのない 事実です。どんなに気を付けても、多くの人が歩くと植物は踏み枯れ、露出した 地面を水が流れ土砂が流出し、やがて賽の河原へと変わっていきます。私自身も 常にそんなジレンマを抱えながら歩いてきました。

硫黄山の噴火以来度々問題となっている土石流災害防止のため、坊原付近から 長者原にかけて、そして法華院温泉山荘付近にも巨大な災害防止のための砂防ダムがいくつも 建設されました。また、すがもり小屋跡の外壁の中には新たに避難小屋も建設されています。

変わり続けていく「くじゅう」を追い続け、様々なことを思いはしています。 でも私はそこに住んでいるわけではありませんから、その変化を否定も肯定も できません。無責任な言い方のようですが、本当は簡単にその変化を否定したり 肯定したりしてはいけないのではないかと思うのです。もしも私が「くじゅう」 の住人であれば、声を大にして言いたいことはたくさんあります。
ですから今私は、ただ私を迎えてくれる「くじゅう」がいつまでもそこにあれば それでよい・・・・と考えることにしています。

※写真は営業中の旧すがもり小屋(上 1994年8月撮影)と 新築されたすがもり避難小屋 (下 2000年9月撮影)



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